2009年12月17日

逆浸透法

海水を圧力をかけて逆浸透膜(RO膜)と呼ばれる濾過膜の一種に通し、海水の塩分を濃縮して捨て、淡水を漉し出す方式である。フラッシュ法よりエネルギー効率に優れている反面、RO膜が海水中の微生物や析出物で目詰まりしないよう入念に前処理する必要があること、整備にコストがかかること、などの難点がある。生成清水の塩分濃度は蒸留を行うフラッシュ法に比較し若干高く100ppm未満である。1990年代までは比較的小規模のものが多かった。しかし最近の日量1万トンを超える大型プラントは、世界的にみても大部分がこの形式で建設されている。

RO膜は元の海水の塩分濃度が高いほど、また得ようとする淡水の塩分濃度が低いほど高い圧力をかけて濾過する必要があるが、例えば平均的な塩分3.5%の海水から日本の飲料水基準に適合する塩分0.01%の淡水を得る場合、2005年現在で最低55気圧程度が必要である。このためRO膜は圧力に耐えるよう、以下の何れかの構造で造られる。

パスタ程度の太さで中が空胴の糸状に成型し、外側から内側へ濾過する(中空糸膜(ちゅうくうしまく)という)。
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1枚の濾過膜を、強度を保つため丈夫なメッシュ状のサポートと重ね合わせて袋状に閉じ、これをロールケーキ状に巻いてその断面方向から加圧する(スパイラル膜という)。
加圧にはタービンポンプやプランジャーポンプなどの高圧ポンプが使用される。

2005年10月現在、世界最大の逆浸透法海水淡水化プラントはイスラエルのアシュケロンにあり、日量33万トンの淡水を工業用や家庭用に供給している。他に中東地域、地中海沿岸、シンガポールなどに大型プラントが多い。日本最大のものは福岡市東区にあり、淡水供給量は日量5万トンである。

尚2006年現在、世界で海水淡水化用の逆浸透膜を最も多く製造している国は日本であると推定されているが、生産国が日米欧以外の国々に拡大し、それらの国々での統計データが不明であるため、必ずしも正確ではない。

2009年12月01日

冬眠

冬眠(とうみん)とは、季節的な低温に対して、動物が摂食や運動を中止して代謝活動を著しく低下させた状態で冬季を過ごすこと。
ヘビ、カエル、カメ、昆虫など変温動物が越冬するときに広くみられる。体温は外囲の温度に並行して低下する。
コウモリ、ヤマネ、シマリスなどの小型の恒温動物も冬眠を行う。小型の動物では、体重に対する表面積の割合が大きいため、体温を維持するために大量のエネルギーを必要とするのである。食料の乏しい冬季ではこれを維持するだけの栄養を摂ることが出来ず、小型恒温動物は冬眠せざるを得なくなる。
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冬眠前には巣の中に食料を蓄えたり、体内に脂肪が蓄えられる。また、体内の脂肪の不飽和度が上がり、凍結することを防ぐ。冬眠時、体温は気温よりやや高い一定温度(コウモリでは5℃,ヤマネでは0℃くらい)を維持する。また、通常に比べ、代謝レベルが数十分の1まで低下する。

大型のクマ、アナグマなどは、冬ごもりを行うが、これは真の冬眠ではなく、むしろ睡眠に近い状態であり、体温の低下も数℃以内で、わずかな刺激でも目覚める。
動物園等で飼育されるクマは冬眠(冬ごもり)することはないが、2006年~2007年にかけて上野動物園で飼育されているツキノワグマ(雌のクー)を冬眠させる実験が行われた。冬眠中飲まず食わずと言われていたが、冬眠明けの頃目覚めて水を飲んで再びまた眠るなどの行動が見られた。

冬眠と冬ごもりが混同されていることが多く、シマリスなども時折目覚めて溜め込んだ木の実などを食べているので冬眠なのか冬ごもりなのか定義も諸説ある模様。

2009年11月27日

ムハンマド風刺漫画掲載問題

ムハンマド風刺漫画掲載問題(-ふうしまんがけいさいもんだい)とは、2005年9月にデンマークの日刊紙に掲載されたムハンマドの風刺漫画を巡り、イスラム諸国の政府および国民の間で非難の声が上がり外交問題に発展した事件をさす。同様な問題が、2007年8月18日にスウェーデンでも発生した。こちらの問題はすでに沈静化しているが、一部のスウェーデン地方紙に激しい抗議が行われた。

デンマークで最多の発行部数を誇る高級紙であり一般的に保守的な論調を有しているとされるユランズ・ポステンは、2005年9月30日の紙面にムハンマドの風刺画を掲載した。この風刺画はムハンマドの12のカリカチュアからなり、それらの中にはターバンが爆弾に模されているなど、イスラーム過激派を連想させるものがあった。

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この風刺画掲載に至る経緯は次のようなものである。作家・ジャーナリストのカーレ・ブリュイトゲンがムハンマドの生涯を扱う児童向けの本を書いた際、この本への挿絵の執筆を依頼されたイラストレーターたちは偶像崇拝が禁じられているイスラム教徒からの反発を恐れ誘いを断った。ブリュイトゲンは3人に断られ、1人に「匿名でなら描く」と返答された。ブリュイトゲンの話は2005年9月17日にポリティケン紙によって報じられ、言論の自由さを誇りとする一方、増加するムスリム移民とその文化に警戒を隠さないデンマーク国内において、自己検閲をめぐる議論を起こした。この経緯を聞いたユランズ・ポステンの編集者はイスラム教社会における自己検閲を巡る問題を提起しようと考え、ムハンマドの風刺画の執筆を複数の風刺画作家に依頼、12名がそれに応じて問題の漫画が紙面に掲載された。

2009年11月13日

1459年9月のブロア・ヒースの戦いに勝利し

1459年9月のブロア・ヒースの戦いに勝利し、王位を目前にしたヨーク公リチャードは、1460年12月のウェイクフィールドの戦いで戦死した。この苦境にヨーク公リチャードの嫡男エドワードは、ウォリック伯リチャード・ネヴィルや弟たち(クラレンス公ジョージ・グロスター公リチャード)をまとめてランカスター派に勝利すると、ヘンリー6世を退位させて1461年11月、エドワード4世を称して即位した。

王位に就いたエドワード4世であったが、成立した政権は不安定であった。エドワード4世は結婚に絡む外交問題や政権内の主導権をめぐって、ウォリック伯やその娘婿であったクラレンス公と対立するようになる。エドワード4世が愛人エリザベス・ウッドヴィルとの結婚を独断専行させ、ウッドヴィル一族を重用したことから、ウォリック伯はマーガレット・オブ・アンジューと和解してランカスター派に寝返り、エドワード4世を追放して、1470年にヘンリー6世を復位させた。

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ウォリック伯の娘イザベルの夫であったクラレンス公も、密かにヘンリー6世以後の王位継承に望みを託していたが、イザベルの妹アンがヘンリー6世の継嗣エドワードと結婚したことから望みを絶たれ、復位したヘンリー6世の政権から離脱した。

国外に逃れて反撃の機会を窺っていたエドワード4世とグロスター公は、クラレンス公と和解して兄弟3人の結束を確認すると、1471年にイングランドへ攻め入り、ウォリック伯とランカスター派の連合軍を破った。復位したエドワード4世はランカスター派を徹底的に駆逐し、実弟クラレンス公も粛清するなど、ことごとく反乱の芽を摘んで国内を安定させた。

2009年11月02日

生物の栄養供給の形は

生物の栄養供給の形は、食う・食われるの形だけをとるものではない。様々な違った形があり、それらを考慮に入れると、また違った食物連鎖が考えられる。

寄生者と宿主の関係を、寄生者が宿主から栄養をとっていると見れば、寄生関係による食物連鎖が考えられる。たとえば

植物をイモムシが食べる→イモムシに寄生蜂が入り込む→寄生蜂に重寄生する寄生蜂が入り込む→重寄生の寄生蜂の体内に細菌が入る
というようなものが考えられる。この場合、寄生者は宿主より小さいのが普通なので、段階を追うごとに小さくなる。寄生食物連鎖は、通常の食物連鎖ほど段階が多くならないのが普通である。
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特に地上の生態系では、植物の生産物は生きた状態では使用されず、植物遺体となって後に利用される率が非常に高い。この場合、落葉や枯木は、直接に動物に食われるのではなく、菌類や細菌の分解を受けたものが餌となっている。これをスタートに、

菌(細菌・菌類)のついた枯葉をトビムシが食う→トビムシをダニが食う→ダニをクモが食う→クモを小鳥が食う……
というようにして、通常の食物連鎖へつながってゆく。また、

菌のついた枯葉をトビムシが食う→タンパク質に富んだ菌の細胞が消化吸収され難分解性の成分が糞として排泄される→トビムシの糞にまた菌がつき繁殖する→菌がついたトビムシの糞を再びトビムシが食う……

2009年10月23日

空き教室

空き教室(あききょうしつ)とは、1991年(平成5年)の旧文部省の定義によれば、恒久的に使われない「余裕教室」の事を指すとあり、本来は「余裕教室」の事を指す。一時的に使われなくなった教室も俗に言う空き教室であるが、教育委員会ではこの定義に当てはまらない。余裕教室の増加は教職員負担、設備負担が過重になりやがて廃校してしまう事が多い。

多目的教室
複数の学級の児童又は生徒を対象とする授業その他多様な指導方法による授業又は課外指導で普通教室又は特別教室において行うことが困難と認められるものの用に供するものとして設けられる教室で、併せて児童又は生徒の学校生活の用に供することができる教室。 2つ以上の余裕教室の壁を取り払い、広いスペースにしている学校もある。多目的プレイルームも小学校に存在する。
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きまぐれ乗車券 
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さとうきび畑
すいかちゃんの日記
ダイレクト暮らしブログ
ドラキュラ一族
ハウンドくんの日記
ピクニック・マーチ
フリージア
少人数教室
もっぱら少数の児童又は生徒により構成される集団を単位として行う授業の用に供するものとして設けられる教室(義務教育諸学校施設費国庫負担法施行令第2条第1項)。コース別授業(興味別授業・習熟度別授業)の際に普通教室を使用する教科の学級を分割するため、そのために使用される。少子化による空き教室を利用している場合が多い。小学校などでは特に一部で実験的に進められている。 例をあげると「国語科室」「社会科室」といったものである。
学校博物館
既存の博物館のサテライトとして運用した、「サテライト型博物館」などがある。この博物館も学校の空き教室を活用している例がある。サテライト型博物館は、茨城県自然博物館スクールミュージアムなどの例がある。

2009年06月22日

適応主義的アプローチで用いられる主な理論

自然選択-生物が繁殖するとき表現型を形作る元となる遺伝子は子に受け継がれる。しかし遺伝子の複製は正確とは限らない。そのためにランダムな変異が起こり、変異のバリエーションは個体の間で生存と繁殖成功率の差をもたらす。変異がその持ち主を成功させるとき、結果的にその変異は集団中に広まり(正の選択)、持ち主の成功を妨げるときにその変異は集団中から取り除かれる(負の選択)。自然選択は通常遺伝子に対して働く。個体の成功はその近似として扱うことができる。群れや集団が選択の対象となるかは論争的である。
血縁選択-適応がどのように遺伝的に受け継がれるかには二つのパターンがある。一つは親から子を通してである。子供を作り、育て、社会で成功させることは結果的に遺伝的成功に繋がる。もう一つは直系ではなく傍系の親族を通してである。親族が飢えているときに親族を助けるプログラムは、見捨てるプログラムよりも相対的に成功する。
性選択・親の投資・親子の対立・ハンディキャップ理論・互恵的利他主義
化学物質過敏症
特定疾患
オーケストラ
バーベキュー
スキンケア
学童保育所
衛生
合気道
ホスピス
試写会
材料科学
システム工学
哺乳類
クリスマス
遺伝子疾患
食品添加物
ボクシング
履歴書
バレーボール
労働組合

心理学の伝統的なアプローチは至近因に関する研究と言うことができる。進化心理学は至近因を形作った究極因に注目する。進化心理学者が特定の行動や心の働きを「適応的」だと言うとき、それはその行動が(少なくとも祖先の環境では、平均的には)生存と繁殖成功を高めたという意味だが、「個人が生存と繁殖成功を高めることを動機として行っている」と言う意味ではない。自然選択の結果、それは一種の直観(例えば道徳的判断のような)あるいは学習の傾向(甘い物は好みやすい、高所やヘビに対する恐怖を身につけるのはたやすいというような)としてあらわれると予測できる。

進化適応環境 [編集]
進化適応環境(Environment of evolutionary adaptedness、EEA)とは生物の適応を形作った選択圧の統計的な複合物のことを指す。通常、進化心理学者は更新世の石器時代の環境を強調する。しかしEEAは特定の特定の場所、特定の時間を意味していない。ある適応を形作った選択圧や環境と、別の適応を形作った選択圧や環境が同じであるとは限らない。例えば地球の明るさ(それは我々の眼を作った)は大まかには数億年以上一定であった。

行動は化石にならないために、過去の心理を特定するのは不可能であると主張されるが、祖先のことについて数多くのことが知られている。我々の祖先に眼があったことはほぼ確実で、その眼は外部の情報を取得するのに使われた。バロン=コーエンはそれを用いて人がどのように他人の心を読むのかを研究した。祖先の時代にはまた物理法則が日々を支配し、男と女はつがいになり、怪我をすれば出血し、捕食者や寄生虫、病原菌の危険にさらされ、兄妹と結婚すれば有害な表現型に苦しめられた

2009年06月05日

議会制民主主義国家では、「議会」は国民による選挙

ほとんどの議会制民主主義国家では、「議会」は国民による選挙によって選出された議員によって構成されている。「議会」は「国民の代表」である議員によって構成されていることによって、実際には政策決定の現場に関与していなくても、国民全てが関与したと擬制される(「議会の審議機能」)。

「議会」は「議院自律権」を持ち、議長や事務局の選出、議員の資格争訟、懲罰、会議運営等について「議会」が自ら行うこととされ、他からの干渉を受けないというもので国権として独立した機関を保っている。

現在のほとんどの議会制民主主義国家では、三権分立の観点から「議会」と「政府」との役割は分担され権力の分散が図られている。多くの場合「議会」は「議決機関」、「政府」は「執行機関」と位置づけられ、それによって基本的に「議会」は「立法」を、「政府」は「行政」を司ることとされている。

「議会」は「決定機関」としての「立法」を司っており、法治国家の根幹である法律を制定する機関として、国家における最高機関として位置づけられていることが多い。

「行政」に対しては、予算承認権をはじめとして、行政機関である政府に対する監視・監督のための様々な権限を持つ。議会の立法権能に付随したものと言われることもあるが、国政全般について質問し、そのために証人を呼び、資料を提出させる「国政調査権」は重要な権能である。また議会が制定する法律が本来的な上位の法であり、政府が定める政令等は補完的・従属的である。
脱毛 分譲 クレジット 健康 葬儀 抜け毛 雑貨 学習 サプリ 家庭教師 特産物 フレグランス 旅館 プチ整形 フランチャイズ 出会い 就職 リフォーム 介護 冠婚 アレルギー 園芸 通信教育 スポット 学習指導 交通地図 コスメ 起業 ネイル 内職 仏具 アレルギー エージェント 引越し 介護 不用品 アレルギー 生活雑貨 英会話 水族館 公園 観光 フレグランス 信託 プチ整形 興信所 防犯 アレルギー 運勢 マッサージ

「司法」に対しては、裁判官の選任または在任につき、何らかの関与をすることが多い。日本の場合は「裁判官弾劾裁判所」を国会が構成する。

現在の国家政治体制は、それぞれ議会統治制、議院内閣制、大統領制等に大別されるが、それぞれの政治体制によって国家における「議会」の権限は異なってくる。

議会統治制は、「議会」がそのまま「行政府」となり、「立法府」が「行政府」を兼ねる制度。
スイス
議院内閣制は、「議会」が「行政府」の長を選び、また辞めさせる権限を持つ。「議会」の信任のみによって「政府」が成り立つ制度。
日本、英国、ドイツ等
大統領制は、大統領が「議会」とは別に行政府の長として選出され、「議会」はこれを直接辞めさせることはできない。「議会」と行政機関である「政府」が完全に独立した制度。
アメリカ合衆国等
半大統領制は、議院内閣制と大統領制の中間的存在。
フランス、ロシア等

2009年05月01日

秀頼は公家風の教育を受けていたと

秀頼は公家風の教育を受けていたと言われ、伝存する筆跡は高い評価を受けている。現在、一部で小柄で文弱なお坊ちゃまの少年というイメージが出回っているが、実際は身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったと伝わる(イメージ的には、現代の大相撲力士・貴ノ浪とほぼ同格の体格である)。家康が二条城で秀頼と会見した時に、秀頼の巨体からかもし出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したと記録するものもある程、武将としての威厳はあったとされている。この点は近年のドラマ、舞台などでは忠実に再現され、舞台『SANADA』、大河ドラマ『葵徳川三代』などにおいて成人後の秀頼は身長の面で大柄な役者が演じている。特に後者においては大鎧を着用した姿も描かれ、大柄であったことが強調されている。体重の面を「忠実に」再現した役者となれば、『春日局』での渡辺徹がその代表である。

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このため身長が5尺(約152cm)も無いと言われ、平均身長が現在よりかなり低かった戦国時代においても「小柄な武将」として有名だった秀吉の実子かどうかが疑われる一因になっている。ただし、祖父・浅井長政や祖母・お市が長身だったことを考えると、秀頼が大柄でもなんら不思議はない。

顔は天然痘の後遺症である痘痕が残っていたとも言われる。

妻である千姫との仲は良かったらしい。しかし、二人の間に子供は出来ず、秀頼の側室の子供を養子とした。

蒲鉾が大の好物であったという。

江戸時代に作られた秀頼の伝記『豊内記』では「秀頼公は太閤の遺言に従い、天下の実権を征夷大将軍家康公に執らせて、大坂城に蟄居していた。礼を重んじて義を行い、聖賢の風を慕い凶邪の念を去り、私欲を哀れんで民を哀れみ、国家が豊かになることのみ朝夕念じておられた。故にこの君が政を執っておられたなら、日本に二度延喜・天智の治が現れただろう。人々は大干ばつに雨をもたらす雲を望むが如く、秀頼の政治を待ち望んでいただろう」と描かれている。

また日本研究家レオン・パジェスの著書『日本切支丹宗門史』の中で「秀頼が失敗したのは彼の頑固な迷信のためで遺憾とするに当たらない」と評している。

2009年04月17日

キプチャク(Qipchaq)

キプチャク(Qipchaq)は、中央ユーラシアのテュルク系遊牧民に起源をもつ部族集団。東ヨーロッパの歴史にあらわれるクマン人と同じ人々である。

現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、キプチャクの名前にちなんでペルシア語でDasht-i Qipchāq(キプチャク草原)と呼ばれる。キプチャク草原を支配したジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのは、これに拠っている。

モンゴル帝国以前のキプチャク [編集]
キプチャクと呼ばれる遊牧民集団は、11世紀頃にハザールにかわってロシア南方の草原地帯にあらわれ、黒海北岸からアラル海北方の草原地帯に広がって遊牧するようになった。彼らは北のヴォルガ川中流域ではブルガール、東のアラル海方面ではカンクリ、西ではハンガリー王国と東ローマ帝国に接していた。ルーシ(ロシア)ではポロヴェツ、ヨーロッパではクマン(コマン)と呼ばれ、東ヨーロッパの諸国はたびたびキプチャクによる略奪目的の遠征を受けたり、時には同盟したりしながら密接な関係をもった。

当時のキプチャクはシャーマニズムを信仰しており、少し後の14世紀の記録によれば、トクサバ、イェティア、ブルジ・オグル、オルベルリ、クングル・オグル、アンチョグリ、ドルト、フェラナ・オグリ、ジェズナン、カラ・ブルグリ、ケネンの11部族に分かれていた。

キプチャク遊牧民は騎兵として優秀であり、かつイスラム法において奴隷として売買されることが許可される非イスラム教徒であったため、クリミア半島や中央アジアを経てマムルーク(奴隷軍人)としてイスラム世界の広い地域で活躍した。

1223年、イランからカフカスを抜けてモンゴル帝国の将軍ジェベとスベエデイが率いるモンゴル軍がキプチャクの居住地に侵入した。キプチャクの諸部族はルーシの諸公と同盟してアゾフ海に近いカルカ川の河畔でモンゴル軍と戦ったが大敗した。1236年にはバトゥを総司令官とするモンゴル帝国の西方に対する大遠征軍が派遣されるが、キプチャクは翌1237年春にモンゴル軍の攻撃を受けた。キプチャクの一部は抵抗して滅ぼされ、一部は東ヨーロッパに走ったが、その大多数はほとんど戦わずしてモンゴル軍に降伏し遠征軍に荷担した。

抵抗したキプチャク遊牧民の中ではオルベルリ部の首長バチュマンが唯一頑強な抵抗を続けた。バチュマンはモンゴル軍の輜重を奇襲して悩ませた。バチュマンはヴォルガ川流域の森林に隠れてゲリラ戦を続けたので、遠征軍に参加した王族のひとりモンケは森林を囲んでバチュマンを追い立てた。追い詰められたバチュマンはヴォルガ川の中州の島に逃げ込んだが追いつかれ、捕らえられてついに処刑され、キプチャクの全てはモンゴルに併合された。

モンゴルによる征服後、抵抗して捕虜となった多くのキプチャク遊牧民がマムルークに売却されていった。そのうちのバイバルスやカラーウーンらはエジプトで権力を確立し、マムルーク朝を建設するに至る。また、4万戸のキプチャクはモンゴル軍の支配を逃れてハンガリーに移り住み、クン人と呼ばれるハンガリーで独自の文化を持った集団となった。

中央アジアのキプチャク [編集]
バトゥが建国したジョチ・ウルスでは、降伏したキプチャク遊牧民の多くは解体され、コンギラトやマンギトなどといったモンゴル高原からきた部族の支配下に組み入れられた。ジョチ・ウルスでは東方から移り住んできたモンゴル人はごく少数であったため、やがてジョチ・ウルスの領域である現在のキルギス共和国からクリミア半島のテュルク系民族のほとんどは、テュルク諸語のうちキプチャクの言語を基礎とするキプチャク語群に属する諸言語を話すようになる。

また、キプチャクの首長で降伏してジョチ・ウルスに仕える将軍となった者もあり、彼らの支配下の遊牧民はキプチャクの名前を保ったままモンゴル政権に加わった。その後の中央アジアの歴史において少なからぬ役割を果たした。14世紀後半以降、ジョチ・ウルスでは「カラ・キシ」あるいは「カラチュ」(いずれもテュルク語で「黒い人」の意)と呼ばれる部族の長たちが、「白い骨」と呼ばれるチンギス・ハーンの末裔たちを推戴して、ほとんどチンギス家にかわる支配者として振舞うようになるが、その中にはキプチャク部を称する者も多く、15世紀に成立したジョチ・ウルスの継承政権カザン・ハン国やクリミア・ハン国ではキプチャク出身のカラチの将軍たちがハンと並ぶ強い権力をもった。

同じ15世紀にはジョチ・ウルスの東方で遊牧民たちはウズベクと呼ばれるようになるが、その中にもキプチャク系の集団が主要な構成要素として参加し、キプチャクの名をもった集団がウズベクのシャイバーン朝やウズベクから分立したカザフに参加した。カザフに接したノガイ、バシキール、キルギス、トルクメンなどの周辺の諸勢力にも、キプチャクの名をもった集団が加わっていた。現在も、これらの民族の中にはキプチャクの名をもった下位集団が存在し、それぞれの現代語では、クプチャク、クプシャクなどと呼ばれている。

東アジアのキプチャク [編集]
キプチャクは、中国史料には「欽察」という漢字であらわれる。オルベルリ部族のバチュマンがモンケに倒された後、モンケに投降した多くのキプチャク部族の人々は東アジアに連れてこられ、モンケが第4代大ハーンに即位した後には南宋との戦争に投入された。モンケの死後、第5代大ハーンに即位したクビライもキプチャク軍団を引継ぎ、キプチャクの王族出身の将軍トクトガを司令官とするキプチャク親衛軍(欽察親軍)を設立した。

元朝のキプチャク親衛軍はとくにモンゴル高原において行われたモンゴル同士の戦争で力を発揮し、シリギの乱、ナヤンの乱の鎮圧に戦功をあげた。クビライの晩年にはその秘蔵の精鋭部隊となった彼らは、クビライの次のテムルのとき、テムルの甥カイシャンの指揮下に付属されて、カイドゥを破りオゴデイ家を滅ぼした一連の戦役に活躍、1307年にカイシャンが第7代ハーンに即位すると、キプチャク軍団はアスト軍団、カンクリ軍団など他の非モンゴル系の軍団とともにモンゴルに等しい待遇を与えられるに至る。

トクトガの孫エル・テムルは、1328年にイェスン・テムル・ハーンが上都で没した好機をとらえ、ついにクーデターを起こしてもうひとつの首都大都を占拠した。カイシャンの遺児トク・テムルを迎えてハーンに即位させたエル・テムルは絶大な権力を握り、元をエル・テムル率いるキプチャク軍閥の傀儡同然にさせた。エル・テムルは1333年に没するが、同年に即位したトゴン・テムル・ハーンにはエル・テムルの娘が皇后として配され、キプチャク軍閥の影響力は維持された。しかし次第にアスト軍閥のバヤンがキプチャク軍閥よりも権力を握るようになったため、1335年、エル・テムルの子タンキシは実権を奪還しようとクーデターを起こして失敗し、キプチャク軍閥は滅ぼされてしまった。

『元史』によれば、元におけるキプチャク部族は濁りがなく味の良い馬乳酒をつくって宮廷に献上する決まりであった。これを「黒馬酒」と呼んだので、元ではキプチャクの人々はモンゴル語では「黒い人」という意味のカラチ(ハラチ)という名前で呼ばれたという。元が明に追われて北元となった後、15世紀の中葉から16世紀に内モンゴルの中部で勢力を持った人々にハラチン部族がいるが、これを元のキプチャク軍団と関係づける説もある。

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